がめこの読書&映画日記

雑食読書家がめこが本を読んだり映画を見たりして思ったことを書いています

悪意より恐ろしいもの~Life is Beautiful

やっと緊急事態宣言が解除されましたね。外に出られるのはうれしいけど、読書・映画三昧の日々がとうとう終わってしまうと思うと少し寂しいです。

この間、基本的には観たことのない映画を見るようにしていたのですが、先日なぜか15年ぶりくらいにLife is Beautifulを観ることになりました。

やはりすごい映画ですね。ロベルト・ベニーニの他の映画は見ていないのですが、彼はこの映画で一生分の仕事をしたと思いますし、あとはもう遊んで暮らしてもいいのではないでしょうか。

今回も15年前と同じように衝撃を受け感動したのですが、今回なんだか心に重くのしかかってきたのは、グイドが収容所でレッシング医師と再会する場面でした。

グイドが以前働いていたホテルに客として来ていたドイツ人のレッシング医師は、なぞなぞに夢中な変人で、どんななぞなぞでもたちどころに解いてしまうグイドを尊敬していました。それから何年も経ってからグイドは収容所に収容されますが、軍医として来ていたレッシング医師と偶然再会します。レッシング医師から真剣な顔で「大事な話がある」と呼びだされ、もしかして助けてもらえるのではないかとグイドは期待します。

しかしレッシング医師の言葉は次のようなものでした。

「よく聞いてくれ。‟デブで醜くて黄色で、どこにいるかと聞くとココ ココと答える、歩きながらウンチをする。わたしは誰だ?“ 答えは小カモだろ?ところが違うんだ。ウィーンの獣医が出題してきた。答えが分からなくて実に困ってる。カモノハシかと思ったが“ココ”と鳴かない。カモノハシは“フルル”。カモノハシじゃない。君のために翻訳したんだよ。君の答えは? ”小カモ”だろ?助けてくれ。頼む。力を貸してくれ。眠れないんだ。」

レッシング医師はなぞなぞの答えを聞きたかっただけなのです。これにはさすがのグイドも絶望のあまり呆然とするしかありませんでした(なお、このなぞなぞの答えは映画の中では明らかにされていませんが、答えは「ユダヤ人」であり、ユダヤ人を侮辱する趣旨のなぞなぞであると解釈されているようです)。

以前見たときは、このシーンもこの映画全編にちりばめられたたくさんの喜劇の一つとして受け止めたのですが、今回はこのシーンの異様さが頭から離れませんでした。

レッシング医師はグイドがユダヤ人として収容されていること、グイドの妻と子供も収容されていること、グイド達が次の瞬間にも殺されるかもしれない極限状態にあることを知っています。そしてレッシング医師はユダヤ人に対して特に差別感情を持っていたわけでもなく、グイドに対して「君は世界で最も想像力のあるボーイだ」と称賛さえしていたのです。

しかしレッシング医師がグイドを助けたいと思うことはありません。レッシング医師にとっては「ユダヤ人が迫害され殺されること」は、自分の人生には何の関わりもないことです。そして、再会したグイドが収容所でどのような心情で過ごしているのかにもまったく関心がないのです。

現代に生きる私たちは、ホロコーストが過去に実際に起こり、想像を絶する数の人生を奪ったことを知っていますし、もし自分が当時のユダヤ人の状況に置かれたらと思うと戦慄を覚えます。一方で、当時のドイツ人の精神状態を想像することは多くの人にはかなり困難なのではないかと思います。なぜ彼らがそのようなことをしたのか、なぜ人間にそんなことができたのかが、単純に理解できないからです。

しかし私はレッシング医師を見て、なぜ人間がホロコーストを進めることができたのか少しわかったような気がするのです。

レッシング医師はエキセントリックな人物として描かれています。彼のように、なぞなぞ以外のことに価値を認めず人への共感・想像力をもともと持ち合わせないというような人は、さすがにほとんどいないでしょう。ただ、自分が苦しいときに人への共感・想像力のスイッチをオフにする、ということは実は誰もがしてしまっているのではないでしょうか。

当時のドイツ人が必ずしもみんなユダヤ人に激しい憎悪を抱いていたとは思いません。彼らは、日々の苦しい生活の中で、一部のドイツ人が始めたユダヤ人迫害を、最初はストレスのはけ口として受け入れ、それに伴う違和感にさいなまれないように、ユダヤ人への共感・想像力をある時点でオフにしたのでしょう。そうすることによって、懸命に生きているユダヤ人一人ひとりに対して行われる気が遠くなるほどの殺戮行為を所与の事実として受け入れ、無感覚に進めることができたのです。

レッシング医師と別れ、眠ったジョズエを抱いて房に帰るグイドが道に迷って見てしまった「山」。この「山」は恐ろしいというような言葉では表現できません。「人が人でなくなる世界」がここにあります。人間は殺戮行為さえ無感覚に受け入れてしまうことができるのです。それも憎しみなどではなく「そういうものだから」という程度の理由で。

それでも、人が人であり続けるためにグイドは戦い続けました。ジョズエのために、そして自分のために。映画のラストでジョズエがとドーラが「僕たち勝ったんだよ!」と抱き合うシーンは、ユーモアと愛情に満ちた美しい世界を、そして自分の人間としての尊厳を、命をかけて守り抜いたグイドが、勝利した瞬間でもありますよね。

私たちの世界は、本当にささいなきっかけで、いつでも「人が人でなくなる世界」に変わりうるのでしょう。いつも時代であっても、私たちはグイドのように日々戦い続けなければならないのだと思います。

 

ライフ・イズ・ビューティフル (字幕版)

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  • 発売日: 2016/12/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

 

恋と現実とその先~Before Midnight

自粛要請が続く中、読書と映画鑑賞で引きこもり生活をエンジョイされている方も多いのではないでしょうか。我が家でもTSUTAYAのDVD無料レンタルサービスを利用してひたすら映画を見ています。

先日見たのは「ビフォア・サンライズ」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」の三部作。

以下(★ネタバレになります)簡単に説明すると、第一作目「サンライズ」では、彼女と別れてヨーロッパを旅していたジェシーが、アメリカに帰る前日にウィーン行きの電車で出会ったセリーヌに一目惚れして、ウィーンの街を一日一緒に歩き回り、第二作目「サンセット」では、9年後にセリーヌとの出会いを小説に書いたジェシーが、出版イベントでパリを訪れた際にふたたびセリーヌに出会い、夕方の飛行機が出るまでという約束でパリの街をまた歩き回ります。

この最初の二作については、限られた時間の中でお互いに惹かれあう二人のやりとりが、ウィーンとパリのなんでもない街並みや光の移ろいの美しさとあいまって、とても印象的ではありました。バックミュージックはほぼ無いのですが、表情や沈黙や風景が語るものだけでなくて言葉で伝えられるものもすごく大切にしている、言葉の力を信じている人が作った映画だなと思いました。

ただ、この二作にものすごく心をうたれたかというと、私は正直それほどでもありませんでした。

初めて会った相手に激しく惹かれて離れがたくなり、その想いをその後何年も持ち続けることは、それ自体素敵なことではあります。しかし「サンライズ」で、結局二人は連絡先を交換せずに別れることを選びました。このとき「半年後に同じ場所で会おう」と約束はしましたが、そんな約束は何らかの事情によって実現しないことが十分想定されるものです(実際にセリーヌの突発的な事情により実現しませんでした)。つまり二人は「実現しないことが十分想定され、実現しなかった場合でもお互いそれほど傷つかず、美しい思い出としてしまっておけるような約束」をあえてしたともいえます。もっと言えば、その後連絡をとりあってお互いをさらに深く知ることよりも、一日の記憶を単なる美しい思い出にすることを二人は選んだことになります。

率直に言って、出会ってすぐに離れ離れになってしまった相手に対する幻想を長期間抱き続けることはそれほど難しいことではありません。ジェシーセリーヌが現実生活に不満を抱きつつ美しい思い出を心に持ち続けていたとしても、そのことには特段価値はないと思います。

「サンセット」では、再会したジェシーセリーヌが再び燃え上がる過程がじっくり描かれており、「サンライズ」と同じく映像も美しく会話も面白いのですが、映画全体としては結局二人が幻想の続きをたどっているにすぎません。

それであまり期待せずに「ビフォア・ミッドナイト」を見たのですが、これは私にとっては、予想を裏切ってかなり見ごたえのある内容でした。

「ミッドナイト」は、「サンセット」の後アメリカに帰らずパリで一緒に暮らし始めたジェシーセリーヌのその後のストーリーです。ジェシーは妻と離婚し、セリーヌとの間には双子の娘も生まれ、前妻との間の息子は時々父の住むヨーロッパに遊びに来るという状況。バカンスのため家族でギリシャを訪れていた際に、ジェシーは息子が住むシカゴへの移住をセリーヌに持ち掛けますが、それがセリーヌの逆鱗に触れ、そこから始まる怒涛のような二人の夫婦喧嘩がこの映画のメインの内容となっています。

セリーヌの言葉は、女性からすると大いに共感できる部分も一部あるのですが、大部分はいまだ男性優位社会への日頃の不満からジェシーを傷つけるためだけに発せられる罵りであり、これを聞き続けるのは女性の私としてもかなりしんどいです。またジェシーの言葉の端々に、普段は表に出てこないマッチョな感覚が見え隠れするのも、気に障ります。挙句の果てには、お互いの浮気やセックスへの不満まであげつらって、相手を最も傷つける言葉を入念に選んでズタズタに切り裂きあうに至り、「サンライズ」「サンセット」の時の美しさは跡形もありません。

サンライズ」「サンセット」の世界に魅せられた人達の多くは「リンクレイター監督は、なぜこんな醜い現実を突きつけるだけの続編を撮ったのだろう」と不思議に思ったのではないかと思います。

でも私は「リンクレイター監督はむしろこの『ミッドナイト』を撮るために『サンライズ』『サンセット』を撮ったんじゃないだろうか。そうだといいな」と思ったのです。

いくら心惹かれた相手であっても、他人と一緒に生きるということは、自分の思い通りにならない相手にイライラし続け、最も大切にしている自分のコアとなる部分を(たいていは無意識の言動によって)否定され続け、結果的に傷つけあうことです。そうやって傷つけあい戦いながら、自分はそれでも相手と一緒にいたいのかを考え続けることです。戦いを続けてもたいていは相手を変えることはできませんし、結局別れを選ばなければならないことも多いでしょう。

でも、いずれの場合であっても、その戦いは、自分とは違うその相手と一緒にいたいという思いから始まるものです。そして私は、最初の恋の瞬間よりも、相手と一緒にいつづけるための戦いにこそ価値があると思うのです。

「ミッドナイト」でも、前二作と同様に音楽はなく、エーゲ海に面した小さな町の美しい自然と光と影が音楽の役割を果たしています。

「サンセット」の後、どこかの時点でお互いへの幻想が崩れたジェシーセリーヌは、それでも自分の全てをむき出しにして、一緒にいつづけるための戦いをずっと続けてきたのでしょうし、これからも続けていくのでしょう。

「ミッドナイト」の続編があるかどうかはわかりませんが、もしあったら、二人の幻想と現実のさらにその先を見届けたいと思います。

 

 

 

やっぱり個人主義から始めたい~戦争好きな左脳アメリカ人、平和好きな右脳日本人

初めまして、がめこです。

先日ある本を読んで、なんだか文章を書きたくなり、ブログを始めることにしました。よろしくお願いします。

その本というのは、「戦争好きな左脳アメリカ人、平和好きな右脳日本人」(篠浦伸禎著)という本です。

この本の内容について全面的に賛成できるわけではないですし、全体的に情緒的な記述も多く、説得力という点でもどうかなと思うところはあります。でも私がこれまでになんとなく感じていたことを確認できた部分もあり、面白い本でした。

この本では、人が考えるときの傾向として、

①左脳(人や物事の境界をはっきりさせたい=理性の脳)と、右脳(人や物事の境界をなくし一体化させたい=関係性の脳)のどちらをよく使う傾向があるか、

②多くの情報を処理して状況を俯瞰する前頭葉頭頂葉(三次元の脳)と、情動に関係し部分を深く狭く見る扁桃体(二次元の脳)のどちらをよく使う傾向があるか、

という二つの視点を掛け合わせて、左脳三次元、左脳二次元、右脳三次元、右脳二次元の4つの傾向に分類し、どの傾向が強いかがその人の言動に大きく影響する、と説明しています。

それぞれのタイプの特徴はおおむね以下のとおりです(カッコ内は、該当する歴史上の人物、とのこと)。ただ、必ずしもどれか一つしか当てはまらないというわけではなく、例えば左脳三次元と右脳三次元の傾向が同じくらい強い、ということもあるとのことです。

  • 左脳3次元:多くの情報を処理して本質を見極める/目的・目標が明確で、結論から考える/情緒的な関わりが苦手(織田信長徳川家康大久保利通
  • 左脳2次元:原理原則にこだわる/緻密な情報をもとに、物事や考えを整理整頓するのを得意とする(石田三成明智光秀江藤新平
  • 右脳3次元:活動的/話をしながら考える/周囲を巻き込む力が強い/自由で楽しいことや刺激を求める(豊臣秀吉高杉晋作桐野利秋
  • 右脳2次元:狭くて濃い人間関係をつくる/相手を大切にするために主体性を失いがち(前田利家西郷隆盛坂本龍馬

著者によると、アメリカ人やイギリス人などは左脳三次元タイプが多く、日本人は右脳二次元タイプが多いとのこと。

自分がどのタイプに該当するかを判断するためのテストもあるのですが、私はここまで読んだ時点で、テストをするまでもなく「自分は右脳二次元タイプだな~」とはっきり自覚しました。偶然なのか必然なのか、私の親や兄弟も右脳二次元の傾向が強いです。

また、この4タイプはそれぞれ相性の良しあしがあり、右脳二次元と左脳三次元は相性が良く、右脳二次元と左脳二次元は相性が悪いとのこと。確かに私の友達は、大所高所から的確なアドバイスをくれる左脳三次元が多いかも。私の夫(理系でオタク)は明らかに左脳二次元ですが(笑)。職場では左脳三次元タイプの人が多くていつも助けられています。

ちなみに、なんでこの本を読んで文章を書こうと思ったかというと、著者曰く「どのタイプの人であっても、脳を最大限使って能力を最大化することを目指すべき」で「仮に右脳二次元の傾向が強かったとしても、できるだけ他の脳領域も使うことがその人の能力の最大化につながる」とのことであり、それは私にも感覚的によく理解できたからです。右脳二次元の私としては左脳三次元の範囲の脳を意識的に使うべきということになりますが、左脳を鍛えるためには日記を書いたり数学の問題を解いたりするのがよいということを(別の情報源からですが)聞き、「じゃあ何か日記のようなものを書いてみよう!」と思ったというわけです。

仕事以外で文章を書くのは学生の時以来ですが、確かに、普段使っていない脳みそを使う感覚がありますね。仕事で文章を書くときは、もともと言葉の形でインプットされた情報を少し編集してアウトプットするという作業であることが多いのですが、今回のように、形にならないもやもやとした思いを文章にするという作業をしていると、なんとなく左脳が鍛えられているような感じがします。

ところで最初にも述べましたが、この本には賛成できない部分もあります。それは、この本の後半あたりから「日本人が能力を発揮して幸せになるためには、個人主義に毒された現代の考え方を見直し、私よりも公を重視して行動するべき」というような論調になっている点です。

著者は、自らを左脳三次元タイプだと分析し、組織を動かすためには左脳三次元的な能力が不可欠とする一方で、相手を大切にする右脳二次元的な行動を尊び、私よりも公のために生きることが各人の能力の最大化や幸福、ひいては社会の発展につながると論じています。右脳二次元タイプの自己犠牲をいとわない性質は、左脳三次元タイプの著者からすると信じられないほどの美徳として映るのかもしれません。

しかし、右脳二次元タイプを自覚する私からすれば、右脳二次元タイプは自分を犠牲にするのがそれほど苦ではない代わりに、周りの人に対しても「あなたも犠牲になってくれるよね?」と甘えるところがあるように思います。日本人は右脳二次元タイプが多いという著者の分析には私も同感ですが、日本人の右脳二次元的性質からくる甘えによりこれまでに引き起こされた悲劇や災難は、ここでは述べませんが無数にあるように思います。

「相手のために何かしたい」を第一に置くというのは、右脳二次元タイプの人間にとって実はそれほど難しいことではありません。しかし「相手のために何かしたい」を第一に置くと「相手も私のために何かしてくれるべきだ」という発想に陥る危険が常につきまといますし、このような発想で社会を動かすことには、私は非常に危うさを感じます。自分を大切にできない人は他人を大切にできないし、いつも我慢している人は他人にも我慢を強いる、というのは私がこれまでの人生で学んだことの一つです。

また、仮に日本人に右脳二次元タイプが多いのであれば、その対極にある左脳三次元的脳領域を発達させるためにも、日本人が個人主義について正しく認識し、まず「自分は何をしたいのか」「どうしたら自分は幸せになれるのか」を考えることは、非常に重要になってくるように思います。

以前からなんとなく感じていたことではありますが、まず「自分にとっての幸せとは何なのか」をしっかり考え、その上で「周囲の人も幸せになりたいはず」「周囲の人も幸せになるにはどうすればいいか」という発想につなげ、全体としての発展を目指すのが、健康的な社会のあり方なのではないか、ということを、この本を読んで改めて考えました。